●お墓のカタチのこと

仕事上、たくさんの墓石を見ます。最近のデザインは実に多彩です。阪神タイガースや機関車トーマスのデザインの墓石なんかも見たことがあります。

ある専門家のお話によると、例えば仏教のお墓の場合、その形は「各宗派に則った形式にしないとダメ」とのことです。つまり墓石の正面の文字は「○○家之墓」ではダメで、「南無阿弥陀佛」や「南無釋迦牟尼佛」(←宗派によってことなります)などの「お唱え」にしたり、梵字などを入れたりすることが正しいお墓。つまり、ご本尊を示すサインを刻み、仏塔にしなくてはいけないとのことです


仏を示すサインがないお墓は仏塔ではありませんから、仏石の正面に「ありがとう」や「やすらかに」だけではダメ。今流行りの「憩」とか「愛」とか、主流になっている「○○家之墓」でもダメ。
そのようなお墓は、お墓ではないという認識になります。

 

これは難しい問題です。

 

先日、現場で、墓石の正面に「日々おだやかに」と草書体で刻まれている和型のお墓を見ました。なんともいえない暖かさを感じました。亡くなられた方やそのご遺族の方々の人生をいろいろと想像したり、日々おだやかにとは、誰が誰に言っているのか、もしかして私にも言っているのかな、なんて色々考えてしまいました。思わずしばらく見とれてしまいました。
その時、私はこういうお墓も「あり」だなと思いました。

さて、私の信仰心は「なんとなく仏教寄り」という立場です。
正月には神社に初詣に行きます。クリスマスにはパーティーをしますし、こよみ(大安仏滅など)も少し気にします。大学は仏教系ですが、いくつか併願して結果的に引っかかっただけです・・・。などなど、様々な宗教行事に顔を出す自分の支離滅裂な行動をみてみると、私は多信仰(あるいは無信仰)と言ってもいいかもしれません。

こういう立場なので、私自身は最近の新しいデザインの墓石もいいんじゃないかと思ってしまいます。敬虔な信仰心がないという理由もさることながら、故人の意思や、遺族の思いが反映されるのもいいのではないかという気がします。

 

 

ただし、墓石のデザインを考えるには、それは末代まで影響することですから、軽率は思いつきではなく、慎重に検討を重ねたうえで決めることだということは言うまでもありません。

 

●あって無いようなもの

ところで、そもそも「各宗派の正しいお墓の形式」というのは、詳しく調べてみると意外と歴史が浅かったり、流行や地域の慣習によってアレンジされてきたものであることに気付きます。

その地域やその時代の人々、あるいは、お寺や神社、墓石屋の意思などが少しずつ反映されてきているはずです。旅行などで地方へ出かけた時、私はその地域のお墓に立ち寄ることがあるのですが、同じ日本の同じ宗教でも、ずいぶん形式の違いがあります。

 

ですから、正しいお墓の形というものは、もはや「無い」と言い切っていいと私は考えています(あくまで個人的な見解です)。

「こうすべき」という形式らしく見えるものは、すべて後付けと言っていいのではないでしょうか。

 

仏教ではストゥーパ。神道では死者が蘇らないようにした「重し」がお墓の始まりだとすると、現在のお墓には原型はありません(しいて言えば五輪塔には残っていると言えそうですが)。

そもそも一人につき1基だったはずが、今では一族が入っています。
 
むしろ、お墓のデザインというものは、時代を追うごとに変化してきて、これからもそれぞれの時代を反映しながら変化していくものだととらえればいいのではないかと考えています。

 

ですから、現在のデザインは今の時代だけであって、これは未来には1つの変遷の過程として、「こんなカタチが流行ったこともあった」なんてことになるのではないでしょうか。

 

 

 

 ●魂のゆくえ

ちなみに、私は死者の魂は極楽浄土や天国にあると考えています。あるいは宇宙かもしれません。つまり、墓石自体に魂は存在していないと考えてます。

 

特に仏教では、初七日法要や四十九日法要など諸々の仏事を通して、遺族が一生懸命になって死者の魂を極楽浄土に導くわけですから、わざわざ墓石に留まることはないのではないでしょうか。

 

仮に亡くなった方の魂が極楽浄土ではなく墓石にあるとすると、冬の寒さや夏の暑さをモロに受けて、あまりにも気の毒です。


いずれにしても、お墓はご先祖様に対する尊敬や愛を形にし、先祖との関係を大切にしていきたいという気持ちの表れとしての存在だと思います。

また、あの世との「窓口」のような位置づけとしてとらえてもいいのではないかと思います。

 

お墓に語りかけると、その声が故人に届いている感じがします。それが小石だとしても、これがお墓です、と言えばそれで大丈夫なのではないかと。

 

 

というわけで、お墓のカタチは極端に言えば「なんでもあり」ということでいいのではないかというのが私の意見です(なんでもありというのは、柔軟にとらえてもいいのではというイメージです)。


● 戒名のこと
最近、亡くなられた方の戒名で「○○院○○○○居士」の「居士」の部分を「「千の風にのる」と書き換えて彫刻して欲しいという依頼を受けました。
つまり、「○○院○○○○千の風にのる」という見たことも聞いたこともない戒名になります。それを墓石に彫って欲しいとのことです。もちろん、お客様のご要望ですから、言われた通りに彫りました。


これもこれで、いろんな意味で「あり」だと思います。

時代背景がお墓のカタチに現われているひとつの例です。

一方、これも、たまに「アレ?」と感じることですが、
おじいちゃんが浄土宗で、おばあちゃんが浄土真宗の形式の戒名を彫るというようなことがたまにあります。一見すると夫婦で別々の信仰があったように思えますが、これは多分、どこかで行き違いがあったのだと私は推測しています。


 葬儀会社さんに依頼すると、戒名までいただける場合があるようです。

 

葬儀会社のとの会話(想像)

「あなたのお家は何宗ですか?」

「仏教です」

「いや、宗派は?」

「う~ん」

 

「じゃあ、あなたのおうちは、南無阿弥陀仏ですか?」

「はい。そうです」

「それではこれをどうぞ」

「ありがとうございます」

実は同じ「南無阿弥陀仏」でも、浄土宗と浄土真宗とでは、その戒名(法名)の形式が異なります。
また、仏教では「南無阿弥陀仏」というお題目以外に、「南無大師遍照金剛」「南無釈迦牟尼仏」「南無妙法蓮華経」などがあって、これらのなかでも戒名(法名)の形式が異なるものがあります。

この仕事をしていて、意外に感じたことは、自分の宗派やお題目を正しく知らないという方が、結構多いということです。

「私の家は仏教だ。だから南無阿弥陀仏だ」の人が結構多いようです。

 

で、さらに言えば、それが原因でなにかに間違いがあっても、誰も気付くことなくそのままスルーしていくことがあるのです。


「こちらはご夫婦で別々の信仰があったのですか?」と尋ねても、「へ?どういうこと?」という返事が返ってくることになります。もちろん、そんなナンセンスな質問をすることなんてしませんが。

やはり、お墓のみならず戒名も「形式」ではなく、「気持ち」というか、その場の自然な流れを尊重していけば、万事が丸くおさまるのではないでしょうか。




※以上は、あくまで私の超個人的な考えです。

想像や憶測もありますが、様々な文献をあたり、いろんな方のお話を聞いたうえでこのような考えを持っています(今のところ)。

「なんでもあり」というのは、真面目に考えることが大前提になっています。正解が無いというのは、それだけ奥深さがあるということで、その分「考えしろ」があるということになります。

ああでもないこうでもないと考えることが、故人や先祖、あるいは子孫との関係を深めていくことにつながるのではないかと思っています。

 

これらの考え方は、今後の経験などでまた変わっていくこともあるかもしれません。

 

また、仏教に偏った例で述べましたが、日本には様々な宗教、民族が存在しています。考え方や形式もそれぞれです。

 

 

●私の宗教観

こんな仕事をしているので、しばしば宗教について考えることがあります。

私は大学で仏教の勉強をしたことがあります。と言っても、自ら進んでやったわけではなく、そういう単位(必須科目)があったから勉強しただけです。

ですから、仏教の本質はぜんぜんわかっていないと思います。

 

そんな私があえて「仏教とは」を述べてみます。

 

仏教とは、突き詰めていくと「悟り」の宗教で、自分自身が苦しみから解放されるための「哲学」のようなものです。

 

違う言い方をすると、仏教は他者を救う宗教ではなく、自分を救うための宗教です。いや、仏様の教えによって自分が救われるわけですから、他者を救う宗教とも言えますが(どっちやねん)。

 

ややこしくなりましたが、仏教とは、他者をどうこうするものではなく、自分自身がどうにかなるための「考え方」なんだと思っています。

つまり、外向きのものではなく、内向きのものです。

 

宗教というより「哲学」ととらえる方が、私にとってはピッタリきます。

 

で、自分自身が救われる理由というか理屈は「世の中のものは、そもそも何でもない」ってことがわかることです。

もっと言えば、そもそも自分の存在なんてただの肉の塊であって、つまり物質的な粒子の集合体だということを理解することです。

 

「心」なんてのも、やはり脳内の細胞が作り出すセロトニンだのドーパミンだのというタンパク質のバランスの問題だけであって、だから例えば「悩み」なんてのも物質的な反応の結果であるということになります。

 

これがわかれば、悩んだり苦しんだりすることがなくなります。というか、悩んだり苦しんだりする理由そのものがなくなるというわけです。

 

・・・と、誤解と偏見に満ち満ちた表現になってしまいましたが、仏教を勉強した(カジった?)私の認識はこんな感じです。

 

もちろん、自分自身が仏教的に救われたり開放されるのは、そう簡単なことではありません。というより、修行を積まれたお坊さん以外はほとんど無理です。

「心」は脳内タンパク質のバランスの問題だけだと言われても、それを心情的に?理解することは、一般の人にはほぼ不可能です。

 

ちなみに、私の中に「悩み」のような心情が芽生えたときはこう考えます。

「どっちにしろ、いつか死ぬんだし」

これは決して投げやりになるわけではありません。

「自分もあの人もこの人も、いつか必ず地球上から消えて無くなるのだから、瑣末なことに心を奪われていても仕方ない」という考え方です。

 

社会規範を守ったうえで、「どっちにしろ、いつか死ぬんだし」を実践しています。

 

 

 ●サムシング グレイト

さて、仏教の話はこれくらいにして、

 

自分自身の宗教的感覚について言うと、私の心の奥底には、「自分は、なにか別の存在に生かされているんじゃないか」という感覚があります。

ちょっとオカルトチックですね。

 

別の存在とは、やはり神様仏様「的な」存在になるわけですが、それに対する具体的なイメージは私にはありません。というより、実はかなりデジタルな存在であったりもします。

 

映画『MATRIX』を観てから、自分の中で合点がいったことなのですが、自身の存在というか人生というか行動というか、そういうものは、あらかじめプログラムされているんじゃないだろうかと。

 

例えば、階段でつまづいたことすらプログラム通りなのではないかと思うわけです。

 

人との出会いや別れ、成功や失敗、出生や死、などなど自分のありとあらゆる行動は、一応あらかじめ決まっているんじゃないかと思うわけです。もちろん、人生には選択する機会がいくつもあります。しかし、その選択でさえ、すでにプログラムされているのではないかということです。

 

それは「運命」とか「神の計画」とかの言葉で置き換えられるのかもしれませんが、前述したように、私の中ではもっとデジタルなシステムなのです。

 

 

●情けは人のためならず

ところで、

 

システムで思い出しましたが、もうひとつ、宗教的かどうかはわかりませんが、それっぽいなと思う事象があります。

 

「ブーメラン現象」とか「引き寄せの法則」と言われるものです。

簡単に言うと、良いことをすれば良いことが、悪いことをすれば悪いことが自分に返ってくるという考え方です。

また、機嫌良く過ごしていれば自分の周りにはいい人が集まり、不機嫌に過ごしていればその逆とかです。

中でも、

 

「人を幸せにすれば、自分も幸せになる」

 

宗教家のみならず、あらゆる成功者が言っている言葉です。もちろん成功者とは、お金持ちの人だけではありません。

中には人をコントロールするためにこの言葉を使う人もいますが、真の成功者たちにはその意図があまり感じられません。本気でそう考え、そう行動してきた、あるいは、振り返ってみればそういうことなんじゃないかと思った。という感じです。

 

ですから、「人を幸せにすれば、自分も幸せになる」という言葉は決してキレイ事なんかではなく、そういうシステムというかプログラムというか仕組みのようなものが人間社会には存在してるんじゃないか、と私は感じています。

 もちろん私の想像です。

 

ただ、私自身の日頃の生活の中で、「そういう目でとらえ、あえてそういう行動をとれば、不思議と結果がそうなる」という経験を何度もしていますし、周囲の人の行動や出来事を見てもしかりです。

もう、これは「世の中はそういうプログラムが組まれている」ってことでいいんじゃないか、と思っています。

 

人に対して親切にしたり、役に立つような行動をしたときは、なぜか気分が良くなります。そして「ありがとう」と言われると自動的に心がウキウキするということを考えると、そういう機能が働いていると言えるのではないでしょうか。

 

ですから、私は何かで迷った時、相手の利益になるように選択することがたまにあります。

自分の利益や立場や考え方などを相手に譲ることは、損をしたり、こちらの思い通りにならないジレンマが発生することになるのですが、エイヤ!とやってしまうのです。

 

すると、やはり損をしたりジレンマを感じたりするわけですが、努めてそれを忘れるようにしています。

多分、いつかどこかで良いリアクションが返ってくるという漠然とした期待があるからです。

 

ん?

ということは、私はまだこのあたりを計算して動いているってことでしょうか。

動機は不純なのかもしれません。しかし、それならそれでもいいとも思っています(どないやねん)。もう少し人間ができてくれば自然にできるようになるでしょう。

 

ただここで大切なことは、この行動は「お人好し」という受動的なものではなく、こちらから働きかける能動的なものであるということです。

 

で、このシステムを仏教用語で例えるなら「因果応報」になると思うのですが、これもやはり私にとっては、漢字で表現できるものではなく、もっとデジタルなイメージです。

 

 

 

、、、ヘンな人ですね(笑)

職業病ということでお許しください。